保護者は、学校で子どもが困っていることには気付きにくいものです。
それは、家庭と学校が全く異なる場所であるからです。
例えば家の中では、少ない言葉でも、お互いのことはたいてい分かります。
「お腹空いた」「何か飲みたい」「公園に行きたい」といった子どもの要望に対し、「もうすぐでご飯だよ」とか、「麦茶があるから、自分で飲んでね」などと返すことが多いかもしれません。
阿吽の呼吸で伝わってしまうのです。
また、家に帰ると宿題をする、夕飯を食べる、お風呂に入る、テレビやゲームなどで時間を潰す、寝るといった生活が繰り広げられますが、そんな場面では困難さは見えにくいと思われます。
しかし、学校生活というのは、非常に厄介なのです。
給食にならなければオヤツなどを食べることもできませんし、ゲームもできません。
「やりたいことを我慢する」、「やりたくないことも我慢してやる」場所なのです。
また、教師や友達との会話では、自分の思いを説明することを求められます。
学習にも取り組まなければならないし、集団行動にはワガママが入り込む隙はほとんどありません。
この学校という管理された、一定の強制力が行使される小さな社会では、誰もが失敗を繰り返しながら成長していきます。
そして、誰でも不安や緊張、困難さを感じるのです。
それを一人で乗り越えていけるのか、教師が背中を押す程度でいいのか、もっと支援が必要なのかということが問題になってきます。
さて、話を戻しますが、家庭と学校の生活というのはこのように内容も質も異なるので、学校での困難さに保護者が気付きにくいのも無理はありません。
ですから、普段から関わりの濃い担任が、子どもの様子を保護者に伝えていくことはとても大切です。
ただ、保護者によっては、子どもの困り感をイメージしにくい人もいます。
例えば、「九九を何度唱えさせても、覚えられません」と伝えても、「電卓があるから、大丈夫でしょう」といった返しをされてしまうことがあります。
また、子どもが困っていても、「それは些細なことだし、そのうちにどうにかなるだろう」と思われることもあるようです。
「自分もできなかったけど、今は何とかなっているので気にしません」と言われることもあります。
ところが、学習についていくのが難しくなり、子どもが「学校に行きたくない」と言い始めると、保護者の気持ちにも変化が表れます。
学校に行かないと、親自身の生活が乱れてしまうからです。
仕事を休まなければならないかもしれませんし、日中の長い時間を子どもと過ごす必要が出てきます。
本来なら、自分が困る前に、子どもの困り感に気づいてほしいと思いますし、早い時期に対応できれば子どもも親も楽なのにと思います。
こんなタイムラグがあっても、保護者の気持ちに寄り添い、子どもの困難さを支援していこうという姿勢をなくさないでください。
子ども時代というのは、人生を左右するのです。
責任感をもって、子どもに関わっていってほしいと思います。
また、保護者の方が気づいていることには、耳を傾けて対応していくことも忘れずにいてください。
信頼関係は、お互いの情報を伝え合うことによって、同じ目線で子どもを見守るところに築かれるのです。